腕を切ること生きること
私が病んでた時いつも手を差し伸べてくれる人がいた。なのにいつも私は不幸だと思ってた。なんだろう、不幸なヒロインに憧れてたのかな?
でもその時は確かに世界は真っ暗で、自分という存在が許せなくて、今ここにいる自分という存在が最初からないことになればとすら願っていた。今まで私に関わった全ての人の記憶から私を消して欲しかった。
なぜなら私が死んだとしたら、悲しむとかそういう感情はまぁ人それぞれにしてもまぁびっくりはするだろうし、そんな波風を他人の心に立てたくなくと思っていたんだと思う。こんな私の事で申し訳ないと。
そのくせ人から自分の望む扱いを受けないととんでもなく相手を心の中で罵倒して、「私はこんなに人に気を使って思いやって行動、発言してるのになんで私にもそうやってくれないのよ」とまぁよく怒っていたなぁ。
自分自身への評価が高すぎであり、他者への理想が高すぎなんだろう。
それなのにこれ以上努力しなければ、自分という存在は認められないとも思っていて、努力できない自分を責めて、責めて傷付けて毎晩腕から血を流してみたりもした。
よく腕を切ってる人に対して、「死ぬんじゃない」とか「そんなとこ切っても死ねないよ?本当は死ぬ気なんてないんでしょ?」とか「かまって欲しいだけじゃん」よく聞くけど。
私の場合は違った。他の人はしらないけれども。
腕を切るのは死にたいからじゃなかった。生きるのを確認するためでもなかった。
自分への怒り、他者への怒り、頭の中で爆発する感情のぶつけ先がそこだった。
夢なんてなかったけど、きっと私は期待していたんだ。自分が生きてる世界に。何か素晴らしい毎日があるんじゃないか?と。
でもだんだん色んなことが見えてくる。
だから思い通りにならない現実に腹を立て、自分を責めて他人を責めて。
今思うと自分で自分の存在をとても持て余していたんだなぁ
いつからだろうか?腕を切ることもなくなった。
自分の期待する世界と現実の世界にズレがなくなって来たようだった。
期待をしなくなるというと、何かを諦めたようなそんなマイナスな表現になりがちだけど、そうではなくて今ある時点の幸せなり、穏やかさなりを見つけられたから。
高校生という時代について
今はもう遥か昔の事のような、つい最近の事のようなそんな高校生時代について考えてみる。
私はあの頃夢なんて全然なかった。将来の明確なビジョンなんてなくて、でもオシャレやら恋愛やら人一倍興味あって、可愛くなりたくて。
というか高校ってのは小学校、中学校と違いかなり本人のやる気に任せた自由度の高い場所だった気がする。
先生も口うるさくなく、友達もまぁ大体同じ位の学力で、地元の友達という縛りもなく「新しい自分」を作り出せるいいチャンスだと思った。
実際私は小、中学校とはずいぶん変わって色んな意味でハジけていった。
ルーズソックスを履いた。スカートを短くした。髪を染めた。ピアスを開けた。
昔から私を知ってる子は「どうしちゃったの?」と心配した。「高校デビューだ」と笑う人もいた。
先生達は心配したのだろう。「変なクスリをやっていないか?」と聞かれた事があった。
結局見た目かよ。誰も私の本質なんか見ていないじゃないか。
優等生、真面目ちゃんと言われていた私は、 何が本当の私かわからなくなっていた。
もうきっと疲れていたんだ。いい子でいる事に。
「頭良いんだね」「真面目だね」
「あんなによく出来ていたのに」
「どうしちゃったのかしら」
ふざけんな。なんの努力もなしにやってたと思うなよ。
私は出来ないから。出来ないと悔しいから。
人の3倍努力して人並み、上に行きたければ、と何倍も努力してやって来たんだ。
もう疲れたんだよ。
こんな必死に生きてくのをこれから先何年やり続ければいいんだよ。
そして私は高校に行けなくなった。